新聞と批評紙 1

宮崎日日新聞に載った小野さんの事前記事
劇団「どくんご」公演に寄せて
テントに興奮渦巻く
演劇評論家 小野和道
 全国巡演している埼玉のテント劇団「どくんご」が三年ぶりに宮崎市にやってくる。場所は東宮・花の森団地内。西に霧島、東に太平洋を見はるかす団地にテントを建てる。夏のイベントには絶好の場所だ。
 今回の出し物「踊ろうぜ」はチェーホフの「三人姉妹」が元本である。田舎に暮らす三人姉妹が、新しい時代の風を感じ、自己変革しようとするテーマと「わたしたち」を重ねたという。
 ただ、筋のはっきりした物語ではない。特異なメーキャップと衣装で、叫び、踊るステージは、喜劇的イメージの激流である。そんな芝居は、考えていては間に合わない。まず感じるしかないといえよう。
 しかし、シーンは心に刻まれて記憶に残る。前回の「ノンノットポケット ゴーゴー」では、僕にはこんなシーンが印象に残る。いじめられて成人した若い女(暗悪健太)が「わたしのことスキ」と尋ねる。「何もかもキライ」と昔貴族だった老女(時折旬)が答える。その言い合いが果てなく続く。暗悪と時折の二人の男優の絶妙のやりとりが人間の孤独、世間の在りようをおかしく表現してみせた。今回もそれぞれにいろんなシーンが観客の記憶に刻まれるだろう。
 どくんご劇を近代主義批判と取る批評もあり、うなずける。しかし、批評というよりもっと陽気だ。興奮が渦巻き、テントは巻き上げられ、夜景と舞台が解け合う。自由と解放感が広がる。
 芝居をするためにテント設営一日、練習一日、撤収に一日かかる。テントに寝泊まりしての全国巡演。重労働と借金が残る。経済原則にも常識にも従わず、自己をかけて演劇を続ける。この独自性と情熱、憤りは今の日本に一番必要な資質ではないか。こんな人間が存在するというだけでも、元気が出る。
 今回、綾町のグローバルヴィレッジでは、テントでない野外劇場公演も試みる。併せて観覧してもらいたい。
・・・(後略 by 劇団どくんご)・・・


新聞と批評紙 2

石巻河北新聞に載ったケンちゃんの事前記事(画像)


新聞と批評紙 3

Voice of NANA II(2) に寄せられたパララン翠光団務川氏の批評
関西演劇シーンを歩く!
3 非常識の演劇…
務川 智正◆劇企画パララン翠光団主宰

 どぐんごという旅するテント劇団がある。1983年、埼玉大学演劇研究会を母体として発足。近年は3年に1度の活動で、今回は「踊ろうぜ」という演目で6月初旬の埼玉からはじまり、松本、京都、鹿児島、宮崎、熊本、大阪、名古屋、豊橋、仙台、北海道などをまわって10月初旬までの4ヶ月を旅して公演をしている。劇団員の人達は1年ぐらい前からミーティングがはじまり、6ヶ月前から日常の仕事を、あるものは休み、あるものは辞めて、2ヶ月間合宿体制をとり、練習して、それから旅公演にでる体制で、演劇活動をしているとのこと。
 彼らの芝居は演目としては前回の3年前の「ノンポケットゴーゴー」と今回で2本見ているが、今回、京都、大阪、名古屋と3ヶ所にわたってみてしまったのは、演劇快楽のとりこになった感受者としての追っかけというよりも、演劇現場の観察者としてみてみたかったからだ。というは、彼らの演劇はわかりやすい筋立ての流れの物語ではなく、断片的な心象状況の架空人物たちの物語が、立ちあらわれては消え、立ちあらわれては消えして終わる。
 日常のたとえられた物語ではないので、客観的な状況理解者としてみると、ほとんどわからないものとなる。主体的な状況立脚者としてみると、彼らの演技が神話ではなく、事件でもなく、Aあるひとの声Bとして感じ入ってくるからだ。つまり、覗き見したい他人の事情ではなく、意識化できない自分の中の他人の顔や、他人の中の自分の顔を見てしまう感覚が立ちあらわれてくる。
 彼らは演劇虚構が現実をたとえて代弁するものとしてではなく、写し出す鏡としてつくりあげている。だから見ている者の意識そのものがどうであるかで変わってくる。
 彼らが写し出してくる鏡の架空人物の世界は、都市生活者としての情報化し流通する価値的な刺激快楽なものではなく、それらの部分ではない、個別化し堆積する無価値的な不安受容なものである。なにも意味のないひと。それらを無感覚な虚無や不条理として彼らは声にせず、自然として生きるからだにとおして、不安受容に感じるものを声にして叫んだり、切羽詰ったり、歌ったり、動き続けて出してくる。
 これらの感覚が、私自身の演劇することのこだわりにふれたと感じてしまったからだ。だから同じ芝居を3回も別の場所でみてしまった。3回見てしまって3回とも違う感じで面白かったかと言えば、そうとも言えなかった。それは非日常の日常化が虚構としての主体者のふれを弱くしていないかと思えたからだ。つまり私たちは日常から逃げることも出来ないが、非日常を安心してしまってもダメだということだと考える。旅することは相対的に状況を変えるが、旅することの日常をどうしてもつくりあげてしまう。旅人というわかりやすいものになってしまう。
 なにも意味のないひとにどのようにふれていくのか。都市生活者の本質的にさらされてしまうところ。それをポップやギャグや奇妙や無意味とかの形容にならないところ。どぐんごの劇はそれでもしなやかに続けている所に、彼らしかわからない堆積しているものをまだまだ引き出してくれる可能性を感じる。