郵政省メールから 1

愛知のBさんの走り書き
 今年の収穫は「どくんご」と「CUATRO GATOS」とシンポジウム「芸術と闘争」でした。
 近代の表現(小説、演劇)はなにものかを再現することで物語性を確保してきたのではないのかという私の思考のもとでは再現=物語性を横に置き分けて、交通を前提にした表現はどうあるべきかを具体的に提示した2劇団の作品だと思える。そういった事において、とても刺激的でした。小説では、「敵あるいはフォー」(白水社刊)(J・M・クッツェー作)も私に同じ振動を与えてくれました。ストーリーは小説「ロビンソン・クルーソー」の島に偶然漂着した主人公(女性)が本国(イギリス)にもどった時、その島の経験を小説家にたのんで本として出版しようとしたが、小説家に島の経験は本にならないと拒否されるといったものです。「ロビンソン・クルーソー」の「他者=従べであり元奴隷」は教育され、飼育されて、「他者もどき」になってしまう。
 「敵あるいはフォー」では他者は「沈黙」として主人公(女性)の隣にいつもいる。近代小説は「読む」と「読ませる」とが同義語のような交通を通して、現前化=物語るという足枷せがあるが。「CUATRO GATOS」はパレスチナ人の虐殺された死者=他者との性的交通から立ちあがらせようとしていた。
 「物語」とは他者の不在であり、にせものの他者の実在であるという領域を排除している「どくんご」は詞う人、叫ぶ人、ぶつぶつ云う人、話しつづける2人の人、だまっている人を配置することで、他者の実在を観る人聞く人に提示している、つまり、観客らしき者は観ること、聞くことをとおして読むという主観(物語)形式を疎外されている。ようするに、永遠に笑いつづける=「踊ろうぜ」である。かってに書いた。
 では、さようなら。


郵政省メールから 1

鹿児島のSさんからの丁寧なお手紙の抜粋
・・・(前略 by 劇団どくんご)・・・
 仕方なく出かけました。ライオンズ公園に行って 踊ろうぜ でなく“帰ろうぜ”と思いました。
 でも時間となりテントの中にいやいや入った時、観客の皆様の雰囲気に“あれ? もしかしていいかもしれない”と思いました。
・・・(中略 by 劇団どくんご)・・・
 でもあの日以来48才の私の人生観はすっかり変わりました。
 私は子供を産み育てて、子供と共に成長してきました。子供から学ぶものは大きくもらった幸せは尊いものでした。それなのにいつのまにか自分のちっぽけな価値観で子供と向き合っていました。名門校に入り一流の大学を出て高ピーな男になるよう育てていたように思います。健太さんが、赤い花を見て“きれい”と叫んだ時、ガーンと頭を打たれました。人の幸せっていったい何ねーって思いました。儲かりもしないのにきれいな瞳で手を抜くことなく皆で芝居でがんばられると、私の魂はどんどんきれいになって行きました。クーラーもなく暑くて、汗びっしょりで、…それなのに瞳は皆、きれい! 死んでいない。立ちふるまいも上品で、小道具、大道具、音楽…なんか、品位があり文化とか芸術とか…ささやかでおしつけでないものが、生き生きと存在している。言葉をかけると私の品性が下品で汚しそうでした。そう、私、品性がだめになりかけていたと思いました。お金とか、見栄とか−−そういうもので腐りかけていた−−と思いました。夜外出したことのない息子は終わると帰りたいと言うので芝居が終わってからの会には出ませんでした。ちょっと残念でしたけど、帰り道はなんか心が軽かったです。大学受験を控えた娘にいろいろ話しました。どくんごのホームページもみました。“あなたの道を行きなさい”と心からの思いやりで言えました。息子にもはっきりと言えました。赤い花を堂々ときれいと叫べる人生を生きろ!と言いました。今の社会こんなことが難しくなっているのです。私の死語、私のいない人生を何十年も生きる子供たちに残せるのは、足をしっかりと地につけ、瞳を輝かせて生きることの力です。こんなあたりまえのことを思い出させて、気づかせてくれてありがとう! そして又、いつか鹿児島にもいらして下さいネ。