宮沢賢治のこと
時折旬 | |||
宮沢賢治(の作品)がみんな好きかと言えば、そういう訳でもない。
むしろ後期の(と言っても、そんなに沢山読んだ訳ではないので、なんとなくだが)作品は、どちらかと言うと「好きではない」。 初めて賢治の作を「宮沢賢治の作品」として認識しながら触れたのは、確か中学の国語の授業でだったと思う。 「アメユキ トテチテ ケンジャ」(永訣の朝だったかな?)と、死の床につく妹についての詩であった。 先生は、賢治の妹に対する想いが、繊細に美しくもの悲しく表現されていると言っていたが、私は「ふ〜ん」と思った程度であった。 賢治の妹に対する気持ちは疑い様が無いが、なんだか自分とは関係ない気がして、特に感銘を受けなかった。 文庫本の最後の解説とかを読んでみると、「妹の死以降、自己犠牲的死への傾向が強くなる」というような事が書いてあった。 確かにそういう傾向がある。 私は、この「自己犠牲」というものが好みではない。 自分を犠牲にして、何らかの(悪い意味ではなく)利益なり快楽なりを他者に与えるという事自体は、「そういう気持ちになる事もあるだろう」と思うのだが、その「他者」が具体的な人物だったりグループだったりでなく、結局「国」とか「愛」とかにすり替わってしまいがちな事がイヤなのだ(賢治作品がそうだと言っているのではないが)。 死んでいく本人はそれで「満足」なんだろうから構わないが、その気持ちを一般化しようとすることに無理があるのではないかと思う。 で、「春と修羅」の「序」である。 この「序」を初めて読んだのは、高校生の頃だったと思う。 その頃から、ほとんど「文学作品」を読まなくなっていた私にとって、何とも言えず心に残った。 わたくしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です なんと冴えた一文であろうか。 他者との関係によって、辛うじて保っている自己の存在が、その関係性の中でまるでふわふわと浮遊しているかの様なイメージを想像させてくれる。 平板な言い方しかできないのが歯がゆいが、この一文は「宣言」であるにも関わらず、その内容を押し付けてくるのではなく、こちらの想像力を様々に掻き立てさせる。 芝居もかく有りたいと思う。 (了) |